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【第3章】裏切り

【第3章】裏切り

 

 営業先を回りながら、僕は浮かれる気持ちを抑えきれずにいた。昨晩咲希が帰宅すると、神妙な顔をしてリビングに現れ、久しぶりに嬉しいことを言ってくれたのだ。

 

「最近夜きちんと会えなくてごめんね」

 「仕事に慣れなくて、夜の接待にもほんとに疲れてて・・・」

 「もちろん倉田さんはいい人よ、セクハラとかもないし、本当によくして下さってるから心配しないで。でも、それで・・・あなたとの夜を大事にできなくて、ごめんなさい。しばらくは毎晩遅くまでの接待が続くけど、来週の金曜日の夜は必ず帰るから。ゆっくりしようね」

 

 思い出すだけでも顔がにやけてくる。『ゆっくりしよう』は学生のときからの僕たち二人の『Hしよう』の合言葉だった。来週の金曜には久しぶりに妻を抱ける!それだけで鬱々としていた僕の気分は晴れやかなものになった。


 



 いつから、妻とはセックスをしていないのだろう?妻を思って、何度ティッシュの中に白く濁った欲望をはき出したことか。あと一週間の我慢で、また昔のように妻を抱ける。僕の心は高揚していた。
 「妻とするまでオナニーを我慢しよう」
 そんなことまで決めた。早漏なぶん、少しでも回数を増やして妻との時間を楽しみたかったのだ。その日の夜も妻は遅くまで帰ってこなかったが、僕は妻の帰りを待たずに寝床についた。ベッドにこすれた陰茎は、今から堅く勃起していた。


 しかし、その日咲希は結局家に戻らなかった。次の日も。そしてその次の日も。携帯電話を鳴らしてもみたが、虚しくコール音がなり続けるだけだった。それもそのはずで、咲希の携帯は家の充電器にささったままだった。彼女が無断外泊をしたのは初めてのことだったのでぼくは大変に心配したが、しばらくして家の留守電に、咲希からこんなメッセージが残されていたのに気づいた。



 「…もしもし、翔太さん?…あたしです。ごめんね、倉田さんの急な出張が入っちゃって、わたしも同行することになっちゃったの。家に携帯電話を忘れちゃったから、しばらくは連絡できないわ。ちゃんと毎日家に電話するから、心配しないで。金曜には帰るからね」


 なんてことだ、倉田と一緒に出張だって? 僕は驚き、歯噛みした。いくらなんでもそれは屈辱的すぎる。人の妻を秘書がわりに使って、出張にまで同行させるのか。嫌味な顔で僕の失敗をなじる倉田の顔が脳裏に浮かんだ。

 ふざけてる。

 絶対に、このことは会社に抗議してやる。

 ぼくはそう決心し、咲希からの電話を待った。しかし彼女からの電話はなぜかぼくの携帯にはかかってこず、家の留守番電話にメッセージを残されるだけの一方的なアクセスでしかなかった。ぼくが家に帰ってみると、電話の「留守電あり」のボタンが光っている。



 「いま福岡にいるよ。とってもこっちはごはんがおいしいです。いっぱいお土産買って帰るね。…あ、倉田さん、いま夫に電…」ピー…

 「あ、あたし。今日も忙しいです。そっちはどう?金曜には帰れそうだから、また電話するね。金曜楽しみだね」

 「あたしです。とっても今日は忙しいの。また電話します」

 「あたしです。また、電話します…」



 そして、金曜になった。結局この一週間、ぼくの携帯に彼女から電話がかかってくることはなかった。仕事用ではない僕の携帯が鳴ったのは、何度か知らない番号からかかってきたいたずら電話くらいだった。ほとんどは無言電話というか、息遣いや物音だけが聞こえるだけだったが、一度などは出たとたんに咲希とは似ても似つかないような淫蕩な女性のあえぎ声が聞こえてきて、咲希の連絡を心待ちにしているぼくの心を乱した。

 木曜の夜には、留守電にメッセージは入っていなかった。社に行ってみても、妻の姿はない。倉田も姿を見せなかった。課の予定表には「倉田:出張(福岡)」とあるのみで、同僚に「いつ帰るか聞いてる?」とさりげなく聞いてみたものの、「さあなあ…今回の出張も寝耳に水って言うか、急な話だったからな。いつ帰ってくるかもわかんないよ」という気のない答えが返ってくるだけだった。同僚は肩をすくめ、「最近独自のプロジェクトに首をつっこんでるらしくて、倉田さん忙しそうだから。あんまり社にも来ないし、大変そうだな」と同情している様子だった。



 咲希はどこにいるんだ…


 今日も帰ってこないんじゃないか。

 いや、もう彼女は僕のところに戻ってこないんじゃないか?


 そんな大きな不安が脳裏をよぎった。


 「金曜の夜はゆっくりしよう」――1週間前にそういってくれた彼女の笑顔が浮かぶ。僕は妻の約束を信じていた。信じていたかった。平穏な夫婦でいたころと変わらない笑顔で交わしてくれた、「週末の夜」の約束。彼女がそれを破るはずがない。ぼくは頭の中をぐるぐると巡る最悪な考えを振り切り、その日一日、仕事に没頭しようと努めた。

 


 ジリリリリ…

 時計を見ると、17時15分だった。定時のベルが鳴り、僕は帰宅の準備を始めた。妻の携帯に電話を掛けてみる。やはり「電波が届かないか電源が切られている」と告げる無機質な音声が流れるのみだった。

  

 (金曜に帰ると言ったんだから、もしかしてもう家に帰ってるんじゃないかな。家のドアを開けたら、いつものとおり「おかえりなさい」って言ってくれるかもしれない)

 僕はそんな希望にすがり、帰途に就いた。金曜の夜、同僚たちは残業をすることなく、うきうきした表情で夜の街に消えていく。彼らにはバラ色の週末が待っているのだろう。ぼくの週末はどうだろうか。今夜、咲希が帰ってきてくれれば、きっと楽しい週末になるんだろうな。そんなことを考えながら、ぼくが帰りの電車に乗り込んだ、そのときだった。


 『ピリリリリリリリッ ピリリリリリリリッ』


 本当に久しぶりに、ぼくの携帯電話が震えた。ディスプレイに現れたのは、待ち焦がれていた「咲希」の文字。

 ぼくは震える手で緑のキーを押した。



 

「もしもし・・・咲希か?」


「あ、あたしよ。なんか翔太さんの声聞くの、ひさしぶりー。ごめんね、ほんと出張忙しくて連絡できなくってー。聞いて聞いて、こっちとってもご飯が美味しいんだ!今日なんてふぐ鍋食べたんだよ♪ 倉田さんと色んなところを回って・・・」


 「そんなことはいいよ!」

 ぼくはつい大きな声を出してしまった。

 「無事ならよかったけど・・・本当に心配したんだ。どうしてぼくの携帯じゃなくて留守電入れるだけなんだよ。ぼく、ちょっと今回は怒ってるからな。…今日はどうするの?」


 「今夜何かあったっけ?週末はこっちでゆっくり過ごすつもりだったから電話しただけだよ、月曜日に帰…」


 「もういい!」

 

 僕は絶叫した。

 終話ボタンを押す。連打。携帯をそのまま投げ捨てそうになり、すでに発車した列車内にいることに気づいた僕は、周囲の乗客の視線を感じて、振り上げた携帯をゆっくりとポケットにしまった。

 



 希望は打ち砕かれた。咲希はぼくとの約束もすっぽかして、九州で倉田と遊んでいるのだ。泊まりがけで。

 もう、信じたくはなかったが、不倫の関係にあるのかもしれない。すでに僕を裏切って、セックスを楽しんでいるのかもしれない。畜生。

 ぼくはそこまでお人好しではない。僕の妻をたらし込んで、金の力で虜にして・・・。



 『復讐してやる』



 ぼくはそう、決めた。創業者一族の血縁だって?上等だ。探偵を雇ってでも不倫の証拠をつかんで、会社に怒鳴り込んでやる。そうして、巨額の慰謝料を貰って、咲希を取り戻す。引っ越しをして、新しい会社でやり直すんだ。



 僕の決心は堅かった。同時に、全てがばからしくなった。下半身がうずく。自分がバカみたいだと思った。咲希を抱くために性欲を我慢するなんて・・・まるで新婚のころみたいだ。僕は結婚初夜に咲希と交わしたいくつかの約束を思い出していた。「浮気は即離婚。風俗も浮気に入る。浮気のラインはキスをしたところから・・・」もうそれらもどうでもよかった。これまではサイトを見るだけで、オナニーのオカズにするだけだった近くの繁華街の風俗店。「M男さん御用達」とうたったその店には、僕好みのSっぽい女の子が多数在籍しており、そのオフィシャルサイトはサービスを説明する動画をいくつも見ることができるため、僕の夜のお気に入りサイトだった。即尺、アナル舐め、コスプレ・・・いつか行くときはこの子を指名して、このオプションをつけてと想像するだけで、毎晩抜くことができたのだった。

 

あの店に行こう。

 気がつくと、僕は電車を途中下車していた。あの町へ。あの店へ。そして妻のことを忘れ、倉田との戦いを始めよう。そう決意した。

 それは、初めて女を買う・・・自分への言い訳でもあった。

 

 

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